願えば叶うという嘘

フランスの哲学者アランは「幸福論」で「悲観主義は気分によるもの、楽観主義は意志によるものである」と説いた。

悲観主義は気分によるもの…は、その通りだろうが。

でも、楽観主義は意志によるもの…は、どうしても、そうかなぁと思ってしまいます。

最近では、量子力学だか、引き寄せの法則だかで「願えば叶う」という話をよく聞きますが。

ああいうのは、苦しんでいる人たちにとったら嘘になるので、間違ったこと言わない方がいいのになぁなんて個人的には思っています。

今回は、願えば叶うという嘘について話をしてみたいと思います。

 

まず始めに、非常にパーソナルなストーリーから話をしていきたいと思います。

僕は、ある宗教の家で生まれ、その宗教はまさしく願えば叶うという教えがある宗教でした。

そのために、毎日、朝晩、勤業(ごんぎょう)というのですが読経をするんですよね。それと、休みの日は宗教施設で宗教の勉強をする。そういう日々を送ってきました。

自身の幸福と家族の幸福を願って必死で拝んできたと思います。

結果、そりゃあ幸せにはなりませんでしたよ。

具体的な一例を出すと、僕がその宗教の創立記念日に生まれたもので。家族は、僕の誕生日に僕を置いて宗教に行くという。暗い部屋でひとりぼっちの誕生日です。

これでは、いくら願ったところで幸せにはならないですよね。

願って、読経などの行動をしてきた年数は、たかだか十数年程度の期間でしかないが。おそらくこれを繰り返していても、僕は延々と苦しみ続けただろうなと考えています。

僕のように人生の出発点から、選択の余地もなく、抜け出せないまま苦しんでいる人もたくさんいるのではないかと思っています。

 

カウンセリングした人の中に、虐待の日々の中で、毎晩、空を眺め「いつか誰かが助けに来てくれる。本当の父母が迎えに来てくれる。そう毎日願っていた」という人がいました。

そもそも、願うという行為自体、現状、苦しんでいるということの証左だと僕は思っています。

だとしたら、願えば叶うという言葉が、僕には、矛盾にみちて、軽薄な言葉だと聞こえてならないのです。

 

願えば叶うが嘘だと思う理由の一つは、以上のように、選択の余地がなく不幸な状況であるというものです。

あともう一つあげると、それは無意識というものです。

反射的な行動、スキーマ、自動思考など、いろいろな表現はあると思いますが、人には無意識の行動というものがあるのです。

とりわけ、苦しんでいる人というものは、無意識的に思考や行動が苦しさに向いているものです。ある人は、スイッチが入ったように不安になったり、恐怖に怯えたり、あるいは怒ったりしますし。ある人は、昼休憩のちょっとした時間にも過去の苦しかった思い出を思い出し、ネガティブな気持ちになったりするものです。

そういった人たちに、願いや意志というものが、いかほどの効果を及ぼすかというと、なかなか難しいのではないかと思っています。

いくら、苦しみの世界から抜け出したい、前向きになりたい、幸せになりたいと願っても、そのようになれず、そんな自分を責めている。そんな人たちもたくさんいるのです。

そういった人たちに、少なくとも僕は「願えば叶う」なんて言葉は言いたくありませんし、そんなことは1ミリも思えません。

ただ「苦しいな。苦しんできたんだな」と感じるだけです。

 

ということで、僕としての答えは「悲観主義は気分によるもの。楽観主義はできる人はできる。楽観主義になれない人もたくさんいて難しい」そんな風に思っています。

とか書いちゃうと、またペシミストたちは「そうだよな。変われないよな」と諦め、絶望しかねないので。もう少し言うと、どうしたら、そこから脱却できるのか。そのプロセスを学ぶとか、変わっていくための方法を知っていくことができればと思います。

とか書いちゃうと、やっぱり願えば叶うのかというオチになっちゃいかねないのですが。

願いを叶えるために、選択できる意志があるのなら、何を選択するのかという方向性は極めて大事だという話であるということで、話を締めたいと思います。

それでは。

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