はなすことで流れる涙
「はなしたところで何も変わらない」と本人が言う。
「そうか、はなしたけれど、理解されなかったんだね」と僕は言う。
「はなしをして、よくなるもんか」と家族が言う。
「そういう家庭に本当の会話はないんじゃないかな」と僕は思う(笑)。
はなしを聞く。僕からも、時々はなす。
言うことはいつも「いままで、苦しかったね」
涙が流れる。それは、浄化の涙です。
はなすこと、それだけで救われる人はいます。
でも、そこに、共感がなければ、途端に本当はなくなり、浄化することはないでしょう。
家族に、恋人に、友人に、困っている人がいるなら、
「どうしたの。はなしてごらん」そう言って、はなしを聞きましょう。
友人も恋人も家族も、はなしができる人が一人もいないなら、僕とはなしをしよう。
確かに、はなしをしても大きな変化はないかもしれない。でも、それは、何かのきっかけにはなります。
まず、本当のはなしをするところから始めましょうか。
話すこと、聞くことの浄化のパワー
話すこと聞くことに浄化や回復の力があるというのは、実は根拠があることなのです。
依存症の世界の中では、昔から話すこと、聞くことが浄化の手段として存在しています。
それは、自助グループというものです。
自助グループで何をするかというと
ただ自分のことを話し人の話を聞くこれだけです。
なぜ、そんなことが回復や浄化の助けになるのか、少し自助グループ始まりの物語を書いていきましょうか。
ある日、酒で家族も職も全てを失ったビルとトムが公園でバッタリ出会った。
ビル「おう、オメエも酒で全てを失った口か」「奇遇だな、オレもそうなんだよ」
トム「なんや気が合うなあ~。また、明日もこの公園で合うべな」
ビル「おう。そうすべな」
次の日、
ビル「不思議なこともあるもんでな。1日たりともやめれなかった酒を、今日は飲んでねえんだわ」
トム「あらまあ、ワシもそうなんだわ。不思議なこともあるべな」
とういうことで、毎日、その公園で会って話をしていると、やめようと思ってもやめられなかったお酒をやめることができるようになりましたとさ。めでたし、めでたし…。
という風に自然発生的に自助グループという回復、浄化の方法が生まれました。1935年のことです。
今では、アルコール依存症の回復のみならず、薬物依存症、ギャンブル依存症、その家族の会、摂食障害、AC(アダルトチルドレン)など、その理念は多種多様な苦しみに対する浄化の手段として、広がりを見せています。
でも、この前、僕の師匠が言っていましたが、自助グループという回復・浄化の方法はやはり、欧米的であると言っていました。
一度、出てみたら分かりますが(出る機会もないと思いますが(・・;))、みなさん喋りが上手い(笑)。
それと、一旦、依存性にならないと回復の流れに乗れないのは、やはりおかしい。
うつ病、パニック障害...。もっとライトな人たち、原因は分からないが、生きづらさを抱えた人たち、そんな人たちが出席できる自助グループがあってよいのかなぁ~と思います。
自助グループの力
自助グループで話すこと、聞くことが回復・浄化になるという話をしましたが、もう少し書き加えないと、誤解が生じるなと思い、そのことを少し書きます。
例えば、「今日、シン・ゴジラ見てな。すっごい面白かったんよ!」
こんな話なら、いくら話しても回復・浄化になりません(汗)。
でも、「うちの亭主が、グズで、のろまで。うちの子供が勉強ができなくて」
こういう話は、多少はスッキリしますね(笑)。
そういうことです。話すこと、その中身は大事です。
また、自助グループでも、欧米の回復システムをいれている自助グループでは、12のステップという回復のステップがあり、その中で棚卸しという作業があります。
自分の罪を認め、その罪をすべて、洗いざらい話すということをしていきます。
これは、健常な人間にとっても厳しい作業であると想像できると思います。
自助グループには、徹底した自己開示があります。本当の素直さがあります。
心から出てくる言葉に、聞いているこちらも涙が流れます。
そういった本当のはなしであるから、回復・浄化がおきるのです。
そして、1度では、ダメですよ。1度出て、「浄化された。回復した」そんな生易しいものじゃありませんよ。何百回、何千回と出席し、何度も何度も話をしていくのです。
回復施設に入ろうものなら、朝から晩までミーティング(話すこと、聞くこと)です。それを2年間です。
ここまでやって、やっと浄化・回復になるのです。
これを読んでもまだ、「話すことに意味なんかない」と思うなら、もう言うことはありません(笑)。
普通は「そんなこと無理」って思うのではないでしょうか。
そうなんです。無理なんです。
しんどい人なら、なおのこと難しいですね。
そのためのクッションとして、僕という存在があると思ってもらった良いかなと思います。
2020年追記
「カウンセリングで話なんかして何の意味があるのか?」という人たち
こういう問いに僕はなんて応えたらいいのでしょうねえ・・・。
少なくとも、僕は、「話なんかして意味がない」という人と話をすることに意味は見いだせないかな・・と感じますが・・・
ただ、そういう人たちを見て悲しい人だな・・とも思ったりします。
僕もそういうことを言ってしまう人たちの気持ちも少しは分かるので・・・。
おそらく、その人たちの人生って、誰と何の話をしても意味がなかった人生なのでしょうから・・。
その悲しい人生が透けて見えるので・・・悲しいなあと思います。
親や兄弟、家族と話をして、学校の先生や友達と話をして、会社の同僚や上司と話をして意味がなかったんだろうな・・って思うからです。
それとも、あきらめて話さえしてこなかったのかな・・。あるいは、話をしている内容が心に届かないほど、心が凍ってしまっているのかな・・。
少なくとも僕は、僕の人生は、話をして意味がないことはなかったです。
友人や恋人との雑談も楽しいものだったし・・
病院で長年働いてきて・・僕みたいな小生意気なただの看護師と、ちゃんと向き合ってくれた師長や医師たちがいました・・少ないですけど。
そんな人たちに救われてきたのだと思います。
本当に、ありがたいですよね。
そんな人たちがいなかったら、僕も「話なんかして意味がない」なんて思う人生だったかもしれないですから・・・
カウンセリングには、ぜひ「話をすることには意味がある。話を聞いてもらいたい」という人たちに、たくさん来てもらいたいですね。
・・しかし、「話なんかして意味がない」という人が親や、兄弟、家族だと苦しいだろうな・・と思います。
あるいは、「話なんかして意味がない」というような人が彼氏や旦那さん、彼女や奥さんだったら絶対、嫌だよなあ・・と思います。
「話なんかしても意味がない」という偏屈な人は、ひとりで生きていけばいいのかもしれませんが・・・それが、近親者だったとしたら・・ゾッとするなあ・・と思いますね・・・。