不安感について

不安感とはネガティブな未来を想像して恐怖している状態であると個人的には考えています。

例えば、病気が不安な人は、TVで病気の情報を見ては「私もこの病気かも・・」と恐れるようになったり。戦争に対する不安が強い人は「日本ももうすぐ戦争になるかもしれない」と恐れるようになる人に対する不安がある人は「○○さんに変に思われているのではないか?嫌われているのではないか?」などと嫌われることを恐れるようになったり

こんな感じで、ネガティブに、そして、おそらくおきないであろうことを自ら恐れ続けている状態を不安な状態であると個人的には思っています。

昔の中国に杞という国があり、そこに、天地が崩れるんじゃないかと憂えて、夜も眠れず、食事ものどを通らないとう人がいました。

杞憂という言葉の語源となった話ですが、まさしく不安感とはこのように、必要のないことをあれこれと心配する、取り越し苦労をするさまのことなのだと思います。

今回は、不安感について、ダン・J・スタイン/エリック・ホランダー編成不安障害(textbook of anxiety disorders)日本評論社から引用する形で説明していきたいと思います。

カラス

 

不安感について

著書内で、マイケル・H・ストーン不安障害の歴史についてとりまとめてあります。その中には、以下のように書いてあります。

不安の歴史は、人類の初期段階までさかのぼることができる。」「不安が人間の基本的な性質の一部分として普遍的に認められるために、古代の医者は精神疾患のリストに入れることはなかった。」「キケローの時代のローマ人は“anxietas”という言葉を使っていた。これは恐怖が長く続く状態を示すものであり(後略)」

不安という症状は人類史を紐解けば、当たり前のようにあり。特段、病気として認識されることがなかった時代が長かったようです。

“不安なんてみんなある”という話かもしれませんが。一部、あまりにも不安が強すぎるという人たちがいるもの、また事実でしょう。

 

不安と自律神経

「不安は、息苦しさ、呼吸ができないくらいの胸部の圧迫感、腹部の圧迫感などを伴うことが多い(Littre and Robin 1858)」

「古い書物に不安に似た状態を述べたものは多くみられるが“不安”という言葉そのものは精神医学的な語法では近年まで用いられてこなかった。その代わりとして、個々の症状は別々の疾患や状態であると考えられていた。つまり、不安状態での呼吸困難の原因は呼吸器系の異常と考えられ、“butterflies in the stomach”と表現される状態は胃の状態の1つであると考えられ、強い不安に伴うめまい感は、“めまい”の1つの状態であり中耳の問題であるとみなされていた。これらの症状を、Berrios and Linksは不安の他覚的な側面であると呼んだ」

「精神は、身体にもっとも働きかけ、その情熱と不安定さによって、驚異的な変化を生み出す。時には憂鬱さとして、時には絶望として、時には悲惨な病気として、そして時には死そのものとして。プラトンもカルミデス(Charmides)で“すべての身体の病気は精神の病気から進行する”と述べている」

不安感とは気分・感情の症状以外にも、息苦しさや動悸、胃部不快感、めまいなど身体症状でも表現されてきたようです。

不安というものが身体緊張をよび、種々の身体症状を引き起こす。プラトンの言うように、まさに“病は気から”というものは事実としてある

これを読まれている人の中にも、動悸がして循環器科に、めまいがして耳鼻科に行った方もいるでしょう。そのまま身体疾患として診断された方もいるだろうが。

種々の検査をした結果、病気の同定ができず、内科医から心療内科の受診を勧められた。あるいはなぜか抗不安薬という薬を出されたという、そんな話は枚挙にいとまなくあることでしょう。

また、

「(前略)自身がみずからの病気の根底にある心理的・対人的ストレスにあまり気づいておらず、“身体化”しがちであったという印象がある。その一部はこの理由から、また医者が聞く耳をもち、扱うことのできるのは身体の状態だけだからである」

ともある。

不安を持った人が自身の心的な問題に気づかず、身体的な問題に意識が向き医師は当然、身体的問題に意識が向き。そうやって患者と医師、両者によって、不安を元にした身体疾患というものは作られていくのだろうと思う。

現代、いまだ原因不明の病、身体疾患は山ほどあるが。それらの原因は心的・対人的なストレスではないのか、もう一度自身に問うてみてはと願うばかりです。

頭痛

不安、さまざまな表現

「“不安anxiety”という用語が疾患に関する医学的な文献に登場したのは、18世紀初頭のある時点においてである」

とある。

「実質的に“不安”という用語は、平均的な人が失恋、経済的な心配などで経験する“通常の程度のもの”と、同様のイベントに対して過剰反応するような人における大きな程度のものとを区別するために用いられていた(Le Pois 1618)」

例えば、恋煩いや失恋においても、何年もの間、苦悶し、苦しむ人がいれば。失恋をしても一晩泣いて、次の日には前を向いて生きていく人もいるでしょう。

不安感とは、まさしく過剰反応と言えるでしょう。

また、

「最初の英語の精神医学の教科書は (中略) 異常な“不安”、つまり実際に存在するものによって過剰に興奮するような感覚と、その逆の“無感覚”、つまり実際に存在するものによって十分に感情が喚起されないような感覚である。中略 不安の原因が何であれ、11月の暗さや東風、暑さ、寒さ、湿度の高さなどによって引き起こされる苦痛によって、容易に不安の存在が知れる。(Battie 1758)」

ともある。

ある種の過敏さというものを不安感だと捉えていたら、ショックなことがあっても無感覚、無感情な場合も不安感であるといえるということです。

たとえ、感情的でない人でも、気圧の変化による身体的過敏さによって自身の苦しさに気づくということもあるでしょう。

「神経質さ(“不安”と読み替えることができるが)は、“低い次元の本能”と“道徳的な本能”との間の内的な戦い、つまり葛藤の結果として理解できるというものであった」

低次元の本能とは、種の保存(性的なものと攻撃的なもの)であるが、それと道徳や倫理といった認知との葛藤が神経質さを引き起こすようです。

臨床でも、そういった葛藤(自己矛盾)によって自律神経を激しく乱だしている人は実に多いです。

このように不安とは、古今、様々な言葉で表されてきました

さらに、20世紀になると不安感を遺伝子から、脳の器質的なものとして表現する時代になっていきます。

とは言え、不安感という苦しみがどういったものなのかという一端を知ることはできたのではないかと考えます。

 

まとめ

災害・飢饉・戦争…人類は近現代に至るまで、不確定な未来に怯え、不安の中で生きてきたといって差し支えないでしょう。

幸いにして、現代、日本という国に生まれて、そこまで社会情勢的に不安に苛まれるという経験を国民のほとんどはしていないはずです。

しかし、そうはなっていないように感じます。なぜ人はこんなにも不安なのでしょう。

世界的にコロナが広がり、マスクやワクチンに対する国民の狂騒を見るに、諸外国のリアクションに比べて、わが国の国民は、いささか過剰な反応であったようにもみえました。

カウンセリングに来られる人も、ほとんどが何らかの不安を抱えた人です。

日本人の遺伝的なものなのか、日本人特有の考えなのか、国をとりまく閉塞感からなのか、はたまたパーソナルなものが原因なのか・・それは、また次の話に続けていけたらと思います。

終わりに著書中に「もし、不安が病気なら、平静が治療でなければならない(Blakmore 1725)」という言葉があります。

不安の反対は平静(安心)です。不安が回復した姿は真に安心できている状態(平静)であると言えます。

おこがましいことかもしれませんが、カウンセリングを通して少しでも安心感を与えることができたならと、いつも考えています。

すべての不安で苦しんでいる人が、安心に包まれ、平静に至ることを切に願っています。

カウンセリング風景

 

<今回の記事の引用書籍>

書籍「不安障害」

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