寂しくて苦しい・・と言っている人はたくさんいます。でも、何がそんなに寂しいのか?本当の理由は、分かっていない人が多いです。寂しさは、子供のころの願いです。子供時代の寂しさだったのです。
誰といても、何をしても満たされないさみしさ
友達がいないから寂しい。
恋人がいないから寂しい。
家族がいないから寂しい・・。
寂しい・・と言っている多くが、誰かがいないから寂しい・・と思っていることでしょう。
でも、最近流行りのソロキャンプだとか、昔からバックパッカーみたいに、バックひとつで世界中、ひとりで遊びに行ける人がいるのも確かです。
誰かがいないと寂しいと言っている人たちは、ひとりでも楽しく生きている人たちのことを理解できない。
逆に、友達がいても、恋人がいても、家族がいても寂しい、居場所がない・・なんて、思っている人もいます。
人といても孤独感を感じて、楽しめず・・グループの中で孤立して、ますます孤独になってしまう。
恋人がいても、家庭を持っても、何か違う、なぜか満たされない。とうとう浮気をしてしまった・・なんて人もいます。
寂しさは苦しいものです。
でも、誰かで寂しさを埋めるのも依存になるし、誰といても満たされないし・・難しいものですね。
寂しさが理解できない人たち
僕も、かつては寂しかったです。
ただ、今になったら、あの時は寂しかったな・・と分かるけど、当時は自分が寂しいという事も自覚なく、ただ身もだえていた・・ように思います。
思い起こせば・・よくお母さんの布団に潜り込んで匂いを嗅いでいたり、うつ伏せでないと眠れなかったり、布団でぐるぐる巻きになったり・・。いつも、寂しいがための行動をとっていたと思います。
でも、当時は感情もなく、寂しいという言葉も持っていなかったのです。
中高生の頃になると、心に穴が空いている、心にすきま風が吹いている・・そういう体感をいつも感じていました。
身もだえるような苦しみの中、眠ることさえできない日々を送っていたと思います。
やっと、この感覚が寂しさなのだと気づいたのは25歳のころでした。
それさえも、「人はひとりでは抱えられない寂しさがあるんだ」なんて思ったり、「みんな、こんなに寂しいのに、よく平気な顔して生きていられるな」なんて思ったものです。
すべての人がこんな寂しい感覚を持って生きているという勘違いを、25歳以降もずっとしてきました。
この感覚が普通ではないのだな・・と気づいたのが自己治療して回復してからですね。
普通の人の感覚ってこんなに楽なの!?とビックリすると同時に・・今まで普通じゃなかったんだ・・とやっと気づいたのです。
なので、これを読んでいる人が寂しさの理由に気づいていなかったり、寂しいとさえ気づいていない・・というのも仕方がないことなのかもしれません。
寂しさとは、子供のころの願いです
寂しさとは、人への願望です。人への願いです。
今まで、寂しいと自覚がなかった人も、
「人(特定の誰か)にどうしてほしいですか?」
と質問することで、やっと寂しかったと自覚ができる人が多いです。
寂しい人たちの多くが「愛してほしい」「そばにいて欲しい」「抱きしめて欲しい」「話を聞いて欲しい」「気づいて欲しい」「分かってほしい」・・などと口にするからです。
そんな願望がある・・ということは寂しいからではないでしょうか。
寂しさとは、幼少期の願望です。子供の頃の願いです。
寂しい人たちは子供の頃から何を願っていたのか・・
実は、それを知ることは、そんなに難しくはありません。
今、寂しくて、近親者や、誰かにしてしまっている言動・・それが、実は幼少の頃の願いであったりします。
- 愛してほしい=親に愛してもらいたかった・・
- そばにいて欲しい=親にそばにいてもらいたかった・・
- 抱きしめて欲しい=親に抱きしめてもらいたかった・・
- 話を聞いて欲しい=親に話を聞いてもらいたかった・・
- 気づいて欲しい、分かってほしい=親に気づいてもらいたかった、分かってほしかった・・
上記にあるのは、ひとつの例ですが・・幼少期の寂しさの一部分を的確に表現しているのではないでしょうか?
こんな風に考えていったら、今まで漠然と感じていた寂しさの理由が分かると同時に、幼少の自分の思いも理解できてくるのではないかなと思います。
寂しさは幼少期のトラウマです
僕は、強い寂しさは幼少期のトラウマだと考えています。
本来、トラウマとは、命の危機に瀕したのちにできあがるものですが・・。
幼い頃、寂しい思いをしてしまうというのは、やはり命の危機で、トラウマとしか言いようがないと思っています。
トラウマができるとフラッシュバックという症状が出るようになりますが・・。寂しい人たちは、幼少の寂しさがフラッシュバックしているのです。
すべからく哺乳動物は子育てをします。
例えば、サルの育児と言ったら、四六時中、母ザルが子ザルを抱いている姿をイメージするのではないかと思います。
では、その母ザルが突然いなくなったら・・
自然界において、自分の身を守ってくれるはずの母ザルがいなくなる。それは、子ザルにとっては死に直結する恐怖ではないでしょうか・・
僕が幼い頃、お父さんがお母さんを殴って、お母さんは顔を腫らして、泣きながら家を出ていったことがあったそうです。
出ていった期間は1年ぐらいらしいですけど・・・。
赤ちゃんや、幼少の愛着の形成が必要な多感な時期に、母親がいないというのは・・この、寂しさ、不安、恐怖といったら・・・
僕のように、幼い時に、分かりやすくこういうことがあると、寂しい・・というトラウマを生涯抱える可能性は高いです。
幼少期の寂しさの正体
もう少し、寂しさの中身について話をしていきましょう。
何が普通の親で、何が本来あるべき親の姿か・・というのはいろいろな意見があるでしょうが・・。
親のあるべき姿というものが分かれば、それと比較することで、寂しさの正体というものが分かる場合があります。
親の愛情とは100%の理解と受容である
僕が考える親の愛情と言うものは、100%の理解と受容だと思っています。
例えば、赤ちゃんが、おんぎゃあおんぎゃあといくら泣いても「可愛い」と言われ、「どうして泣いているのかな?」と気持ちをおもんぱかってもらって。
うんちを漏らしても「ああ、うんちが出て良かったね」と言ってもらえる。
これほど、愛してもらって、100%理解と受容をしてもらえる時期というのは、赤ちゃんや幼少の時しかないでしょう。
それが、何らかの理由で、この時期が無い、あるいは不足している人たちがいるのです。
それが、寂しい・・と言っている人たちです。
これが、トラウマなのです。
そして、寂しい人たちは、この100%の理解と受容を夫(妻)とか、彼氏(彼女)、あるいは人や社会に求めたりするのですから・・。
100%理解と受容なんて、大人になればなるほど無いわけですから・・いつまでも、物足りなく感じるし。
周りの人も、いくら愛情を注いでも満たされない・・なんてことになってしまいます。
幼少期の寂しさを満たす
・・いろいろと言ってきましたが、寂しさは人それぞれ。
幼少期の願望は何か?という自分への問いかけから、自分の寂しさ、トラウマに気づけていけたらいいですね。
そして、
- その寂しさを吐き出して、
- その寂しさを今度こそ受容してもらって、
- やっと寂しさというものが満たされ、
- 終わっていくのではないか・・
と僕は思っています。